米相場暴騰

1928年、米相場は暴騰した。高垣甚之助の買いが米の値をグングン上げていったのだ。その買いは腰の据わったものでとても強いもので、高垣甚之助の力が並々ならぬものを意味していた。彼は、1920年のバブル崩壊のときに売り続けて巨利を得、その資金を持って米相場に乗り込んできている。

バブル相場は買いで大儲け、崩壊は売りで大儲け、両方で巨利を取るという離れ技を見せる相場巧者でもあった。

高垣甚之助は、苦学生に学費を援助したり、利益を故郷和歌山県に寄付するという剛腹な側面もある人物で人気もある。当然、彼に便乗して儲けようというちょうちん買いも付いていた。

山崎種二は、この時も「売り方」に陣取る。

これも、楽勝の戦いではなかったようです。「そろばん」の中でこの高垣甚之助との戦いはこう書かれています。

----

昭和三年、高垣甚之助による買占めがあった。それは大きな思惑だった。高垣甚之助は蛎殻町の清算市場で買って、また買った。その買いっぷりの良さから。彼一人の思惑ではなく、その背後には久原房之助がいるのだろうとか、いや伊東ハンニだろうとかいろいろ取沙汰された。

でも、買いの本尊が誰なのかさっぱりわからなかった。

----

蛎殻町というのは、米先物取引所のあった場所のことです。今でも東京商品先物取引所は蛎殻町にあります。

最初のうちは、相手の正体もわからず苦戦していたようです。

9月までは、買い方のほうが優勢であったが、10月に入り米相場は暴落し、売り方の勝ちとなる。

「売りのヤマタネ」の面目躍如であった。

この勝負は、素人目にはキワドイ勝負のように映った。

しかし、これにも裏がある。

戦いの表裏

日本相場師列伝の中には「山崎種二と高垣甚之助の戦い」は、こう書いてあります。

----

相場の流れを変えたのは、残暑続きで土用の日照不足を取り戻し、凶作予想が豊作に変わったためだった。高垣甚之助は、あえなく破綻するが、この戦いは兜町でも大きな話題になった。

----

一般的には「天候」による運不運が勝敗の分け目という見方でした。しかし、売りで勝った山崎種二の「そろばん」によれば真実の姿が見えてきます。

「そろばん」では、こう記述してあります。

----

売り方は大きくかつがれたわけだが、一向に心配はない。産地で現物を手当てしてはサヤをとって売りつないでいたからである。

しかし、全部が全部つなぎではなかった。思惑分も入っていた。そして新米が出回りかける十月初めには、1石あたり38円39銭という高値をつけた。

だが、これを天井にして相場は急反落した。流れは変わった。

----

高垣甚之助が買占めをして米の値を吊り上げている時に、山崎種二は相当数の現物米を押さえていました。それ故、米の先物値が暴騰しても将来受け渡す米を既に持っているのですから、その分については損はしない仕組みになっていたのです。

序盤では、正体もわからず苦戦したものの、その中ではきっちりとサヤ取りのヘッジを行っていたからです。

前回の石井定七のときと似たような状況です。

FXに置き換えるなら、両建てポジションを持っているのとほぼ同じ状況です。

豪ドル 10万売り - 10万買い

こういうポジションを作れば、為替相場が上がろうが下がろうが基本的に影響はありません。これでも、利益を出す方法があることは前回までに書かせて頂いたとおりです。

スワップ金利 サヤ取り
 
高垣甚之助とやりあった山崎種二の戦略もこれを土台にしていたため、米先物が暴騰しても大きく動揺することはなかったようです。

基本戦術はいつもの「サヤ取り」だったわけです。

米相場暴騰 仕手戦の表裏 まとめ

 「戦いの表裏」

一見苦しそうな戦いでも、裏ではきっちりとした勝算がある。山崎種二の運用の基本です。